どうも、お久しぶりです、Xin(しん)です。
むかしサイバーエージェントが運営しているスポットライトというメディアで記事を書いていました。
しかし、2018年8月31日、スポットライトのコンテンツが完全に消滅。
スポットライトは、画像や文章の著作権の温床であるとされ、当時はけっこう叩かれていました。
とはいえ、一生懸命頑張ってコンテンツを仕上げているライターもいました。
なのに、それらもすべて消すとは、さすが「ユーザーが書いた記事の所有権はユーザーではなく会社である」と公言するサイバーエージェント。
それでも消えてしまったものは仕方ない。今回は、消される前に救出していた記事をこの場を借りて転載したいと思います。
シンガポールとは関係ない、日本の体育会系に関する内容なので、ここで公開すべきかどうか悩みました。
しかし効率を重んじるシンガポールに住む自分が、
「何より上下関係を重んじる体育会系気質は明らかにおかしい、そんな非効率的なことをする背景は何なのか?」
と疑問に思い調べたことなので、無理やりこじつけて、ここでシェアさせて頂きたいと思います。
目次
体育会系にどんなイメージを持っていますか?

みなさんは体育会系と聞いてどんなイメージを持っていますか。「礼儀正しい」「さわやか」「かっこいい」などのポジティブなイメージ。
それとも「融通が利かない」「頭が悪い」「社畜」などのネガティブなイメージでしょうか?
最近でこそ体育会系に対するネガティブな情報が増えてきたものの、基本的に礼儀正しく、忍耐力があり、上下関係を重んじる体育会系の人。
学校のみではなく企業からも好かれる傾向が強いです。
会社の採用担当者側からすると将来の部下は、何でも言う事を聞くイエスマンの方が気分が良いし、扱いやすいので当たり前と言えば当たり前ですね。
しかし、そんな体育会系のルーツを今まで考えたことがあるでしょうか?
運動会や部活動はどこから始まった?

体育会系と関連が深い運動会、部活動のルーツから見ていきましょう。
運動会は、定説では1874年3月21日、海軍兵学校(海軍の将校たる士官の養成を目的とした教育機関)で行われた競闘遊戯会が起源とされています。
当時英語教師として来日していたイギリス人のフレデリック・ウィリアム・ストレンジの指導によって行われました。
ストレンジは、学生が常時スポーツを行えるような組織やその基盤を作り、異動先の東京大学予備門(東京大学に入学する者への準備教育機関)でも運動会を開催しました。
これをきっかけに全国の学校に運動会が広まるきっかけになったとされています。
当時の日本には定着していなかった、陸上競技、水泳、フットボール、野球、テニスなどのスポーツを紹介し、現在日本全国の学校で定着している部活動の創設を行ったのもストレンジです。
つまり、日本初の運動会はイギリス人の指導により軍隊の学校で行われ、部活動も同様にイギリス人により広められたということになります。
「スポーツ」と「体育」はもともと相反する単語
ここで注意しておきたいのは、ストレンジが広めたのは、体育ではなくスポーツであるということです。
言語のルーツからたどると、「sport」という単語はもともと「disport」というラテン語から英語に輸入され「気晴らしをする」 とか 「遊び興ずる」 という意味で使われていたもの。
後に「di」の部分が発音されなくなり、現在の「sport」 になりました。スポーツとはもともと遊びであり、楽しむものだったのです。
体育会系は旧日本軍の名残?
しかし本来楽しむべきはずのスポーツがストレンジにより広められた後、軍隊の訓練や兵士予備軍としての男子学生の心身を鍛練する手段として利用されるようなります。

そして戦前の軍国主義の高まりとともに「体育」という単語に置き換えられ、我々日本人の間に「スポーツ=体育」という訳語が定着するようになりました。
もちろん軍国主義の時代は、部下は上官に絶対服従する必要があり、厳しい上下関係による規律が求められていました。
そのベースが公教育で「体育」という教科を通して叩き込まれていたのです。
体育会系の団体が理想的な集団になることは稀
戦争という特殊な状態であれば、国民全体に上下関係の規律を叩き込むのは致し方ないかもしれませんが、このような傾向は戦後も続きます。
現在でも主に中学校から始まるラグビー、野球、サッカー、テニスなどの運動部で、年功序列の上意下達型の縦社会が形成されています。
運動部と呼ばれる一部の体育会系の集団の中では、目上の者に対する絶対服従は当然であり、目下の者はいかなる命令にも背くことは許されません。
理屈抜きの根性論、精神論で動くことがほんとんであり、その傾向は高校、大学、大半の企業に至るまで蔓延っています。
体育会系気質の集団が最も効果を発揮できるのは「上に立つものが著しく優秀であるとき」のみだと思われます。
誰に対しても平等で、人の意見を聞き、モラルがあり思いやりがある絶対的なリーダーがいれば物事がすべてうまく進むかもしれません。
しかし、体育会系的集団内では、実力主義ではなく年齢主義で誰でも年を取ればある程度上に立てるため、彼らが理想的な集団になることは、ほとんどの場合においてありません。
むしろ学校の運動部は、いじめや犯罪の温床となっています。
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マツコ・デラックス氏も断言「体育会系社員は30代で終わる」
目上に礼儀正しく扱いやすい体育会系という特徴は、就職活動では有利に働くかもしれません。
しかし柔軟性に欠ける体育会系は30代で限界が見えてくる、とマツコ・デラックス氏も指摘しています。
「20代は言われた仕事を一生懸命にこなし、こなす仕事量は誰よりも多い。営業でも挫けることなくアタックする姿勢は光っています。ところが30代になると息切れして失速する社員が出てくる。共通するのは指示された目の前の仕事だけをやり、他のことは何も考えていないというか、創造性やクリエイティビティに欠けるのです。上司に対する忠犬ぶりはすごいが、後輩や周囲を巻き込んで創意工夫しながら仕事をこなす能力が低い。その結果、昇進レースでは部下に先を越されてしまう社員もいます」
スポーツ、運動自体が悪い訳ではない
年齢に関わらず心身の健康を維持するために、運動することはとても大切なことです。
スポーツで体を動かして息抜きしてリフレッシュすることは心の健康にとっても良いことだと思います。
しかし日本の「スポーツ=体育」という言葉は、軍国主義時代を経て、当時の狂気的な精神論や根性論、目上の者に対す絶対服従といった側面を持つようになり、旧日本軍の悪い特徴のみが現在の「体育会系」という単語で表現されているような気がしてなりません。
先輩や上司のいう事を盲目的に「正しい」と思いこんだり、理屈や背景も考えず目上の人間に言われたように行動する。
それを習慣化してしまうと、「かつての旧日本軍のように・・・」とまではいかないにせよ、部活動内、会社内という単位で、集団内に恐ろしい結果を招いてしまうかもしれません。